オン ザ ソファ

一人きりで暮らしているから、どうでもいいことを聞いてほしい

セクハラとビニ傘

 世の中には、コンビニとか学校の傘立てにあるビニ傘を、他人の物と知りながら勝手に持って行ってしまう人がいる(以下、ビニ傘泥棒とする)。このビニ傘泥棒の心理について考察してみると、ある2つの特徴が見えてくる。

 

 ビニ傘泥棒がなぜビニ傘を盗むのかというと、「ビニ傘くらい、大丈夫っしょ!」と考えているからだ。この「大丈夫っしょ!」には、「盗んでも足がつきにくいから」という意味もあるだろうが、おそらく「安いビニ傘を盗っても、大した罪にならないから」という意味合いが一番大きいだろう。

 実際、ビニ傘泥棒は犯人がバレにくいし、万が一バレたとしても警察に突き出されることはまずない。盗った傘を返すか、数百円払って弁償すれば全て済む。だから、「ビニ傘くらいなら盗んでも大丈夫」という考え方は確かに正しい。ただしこの考え方には、盗まれた側の視点が全く入っていない。

 Twitterで『傘 パクられた』で検索すると、傘をパクられた人々のツイートがわんさか出てくる。『殺す』『死ね』『呪われろ』等、その呪詛の数々からは凍結をも厭わない強い怒りが窺える。

 このように、傘を盗られた人は、大抵が結構怒る。高い安い以前に、“使うために持ってきた”、“無いと困る物”を盗られているのだから当然だ。しかしながら、ビニ傘泥棒はそんな大切な他人の傘を平気で持って行ってしまう。傘を盗られた人の気持ちを想像できないのだろうか?しかし更なる調査の結果、そういうわけでもないらしいことがわかってきた。

 

 Twitterで今度は『傘 パクりました』と検索した。すると意外にも、傘泥棒側のツイートもパラパラと出てきた。

 

 『雨ヤバすぎて、知らない人の傘1本パクりましたすいません(笑)』

 『魚民の店員さんが使ってた傘パクりました。ごめん』

 『会社で傘パクりましたなう、ごめんなうさい、』

 

 一応、謝っている。まるでネオソフトのような軽い口あたりではあるが一応、謝っている。つまり彼らは、傘を盗まれた側が困ること、怒ることをちゃんと知っているのだ。しかしその一方で、盗んだことをゴリゴリのリア垢で呟いてしまうくらいには軽い罪だと思っているし、『傘 怒られた』で検索すると、これまたアッサリとした語り口で『傘パクろうとしたら持ち主に見つかって怒られた~』なんて言っている人がまぁまぁいる。

 そしてさらに調査を続けたところ、ビニ傘泥棒の心理の核心に迫るいくつかのツイートが見つかった。

 

 『コンビニで傘パクられたけん、他の人のパクりました。きっとその人も別の傘をパクるだろう』

 『傘がパクられたので、おれも傘をパクりました。傘は循環物です』

 『コンビニで買ったビニール傘、夕飯食ってる間にパクられた。パクったやつは濡れなかったってことだし、帰るのに荷物減ってよかったって思いました(寛容)。 でもそれは雨が止んでたからで、降ってたら俺も誰かの傘パクってたわ(笑)』

 

 そう、彼らは『傘をパクられたら別のをパクればいい』と考えていて、それゆえに盗まれた人の怒りを軽く見ているのだ。「傘なんてそこら中に刺さっているんだから、そっちを使えば良いじゃん。そんなに怒ることじゃないでしょ?」と、どうやらそういうことらしい。

 彼らにとって、盗みには等級があるのだ。財布や貴金属といった貴重品は替えが利きにくいから盗んではいけないが、文房具やビニ傘など安価で手に入りやすいものは気軽に盗んでも良いと考えている。

 もちろん、そんなわけはない。モノがお金だろうが消しゴムだろうが、人の物を盗ったら窃盗罪に当てはまる。それに盗みというのは等しく卑しいドン引き行為だ。しかしこういった道理では、ビニ傘泥棒たちは納得してくれない。彼らは彼らのルールを一歩たりとも譲らないのだ。

 

 それで、ここでようやくビニ傘泥棒の心理の特徴の話になるが、ビニ傘泥棒たちは、傘を盗られた人が困る・怒るということをちゃんと予測した上で、ビニ傘を盗んでいる。これは彼らが、「ビニ傘の価値は低い」というところを重視していて、さらに「だから許してくれるはず」と思っているからだ。ビニ傘を盗まれて激しく怒る人がいたら、それはその人の心の狭さに問題があると考えるのだ。自分は宝石を盗ったわけじゃない、そんな理不尽な怒りには共感できない、と。

 このようにビニ傘泥棒には「このくらいなら許してくれるはず」という他人に対する図々しい甘えと、「こんなのでマジギレする方がおかしい」という自分独自のルールが根拠となった、盗まれた側の感情に対する強い非・共感性がある。この2つがビニ傘泥棒の心理における最大の特徴であり、さらにセクハラを働く輩にも通じるところがあるのではないかと思うのだ。特にこの2つ目に挙げた、被害者感情に対する非・共感性が、このビニ傘泥棒およびセクハラが無くならない最大の理由だと私は考えている。

 

 私が受けたセクハラの話に戻る。

 なぜあのとき店長がセクハラを止めてくれなかったのかということだが、おそらく彼は、私にとって手や肩を触られることが「苦痛だった」ということを最後まで信じてくれなかったのだ。彼にとってセクハラにあたるのは胸やお尻など明らかに性的な部分だけであって、それ以外の手や肩は「触ってもそんなに嫌じゃないはず」であり、触ったことで私が怒ってもそれは私の心が狭いせいであり、「ほんとは大したことないのに大げさに言っているだけ」と思ったのだ。

 そうか。あれだけ言ったけど、信じてもらえてなかったのか。

 本当のことを言っているのに信じてもらえない子供のような、やるせない悲しみがある。しかしまぁ、済んだ話だ。とにかくこういった仕組みで、ビニ傘泥棒は傘を盗られた人の怒りを信じずに傘を盗み続けるし、店長はセクハラを繰り返したのである。

 

 率直に言って、どうしようもない。

 「こいつら、どうしようもねぇな!」という侮蔑ではなく、本当に、彼らを止める手立てが見つからないということだ。

 

 多くの人は多分、誰かに「これは嫌だからしないで」と言われたら、なぜ嫌なのかという理由はともかく嫌だと思っている気持ちについてはすぐに認め、しないでいてくれるだろう。「嫌」の基準は人それぞれであることを知っているからだ。

 先日Twitterで、シール恐怖症の人が描いた漫画が流れてきた。その人はシール全般が苦手で、服に貼られたりすると強い嫌悪感を覚えるし、なるべく視界にも入れたくないのだそうだ。私にはなぜ彼女がシールを嫌がるのか一欠片も理解できないが、それでも、「嫌だと言ってるんだから嫌なんだろうな」とは思える。もし私が彼女の同僚なら、彼女の前にはなるべくシールを出さないようにするだろう。それは大した手間ではなく、特別な工夫も必要ない。

 しかし上で述べた非・共感性の人たちは違うのだろう。「シールなんて無害なものを嫌がる人間がいるわけがない」という自分の基準に当てはめて、彼女の嫌だという言葉すらも信じず、彼女に一切配慮しない行動を取るのだろう。

 

 ビニ傘泥棒やセクハラをする人の「これくらい許してくれるはず」という甘えは、そもそも自分の価値基準を他人にも当てはめ、そこから逸脱するものを「嘘」「大げさ」だと決めつけて信じようとしない非・共感性から来ている。だから彼らの行動を止めるためにはまず被害者側の言い分を信じてもらわなくてはいけないのだが、そんなことはできやしないんじゃないか、と思ってしまう。人の考え方を変えるなんて、絶対に無理だ。もう私はこの点に関してはあきらめざるを得ない。お手上げだ。私は無力だ。

 

 でも少なくとも、セクハラやその他嫌なことをされて苦しんでいる人には知って、というか思っていてほしいのだ。あなたを苦しめているその人は、他人の我慢にあぐらをかいて自分の好きなことをやってしまう、とても卑しくて図々しい人なのだ。あなたの苦しむ理由はあなたの気にしすぎではなく、あなたが苦しんでいることを認めようとすらしない相手の身勝手さにあるのだ。

 

 私にはセクハラをする人をクビにする権力も、論理でねじ伏せられる知力も無い。それでも、自分が苦しんでるのは自意識過剰のせいじゃないんだという自信が持てたら、ちょっとは気が楽になるんじゃないかと思ってこの話をした。どうかそうであってほしい。